北山杉の歴史
日本家屋 北山杉は日本家屋と共に継承されてきた。

室町から現代へ

江戸時代から明治時代にかけて中川地域の磨丸太は、京都市内はもちろん関西一円にも販売されていきました。
この頃より「北山丸太」の名が知られ各地に出荷されていき,山城国土産名物として「北山丸太」の名が挙げられるようになっていきました。

大正4年に京都御所で行われた、大正天皇即位御大礼では用材として北山丸太を626本納入され、大正7年には中川地域にて「北山丸太商組合」が設立、そして昭和3年の昭和天皇即位御大礼では、悠紀・主基殿用として、黒木丸太を500本納入されています。

その後、第二次世界大戦終戦直後に「京都府北山丸太生産組合」(現.京都北山丸太生産協同組合)が設立されました。
そして吉田五十八や篠原一男らをはじめとした著名な建築家たちによる近代数寄屋建築が華々しく登場していくなどもあり、中川地域の磨丸太の需要は絶頂に達していきます。

ブルーノタウト

昭和時代には、年間生産は約10万本を越え、「和室の床柱と言えは北山杉」というくらいに需要は伸びていきました。
昭和41年、北山杉は「京都府の木」として選ばれ、こちらは現在も京都のシンボルとなっています。

また国会議事堂の正面玄関前庭には、昭和45年に作られた「全国都道府県の木」のコーナーがあり、その中で「京都府の木」である北山杉は、庭園的な趣で周りと異なった雰囲気を漂わせています。

床の間と共に広がる北山杉

そして平成10年、「北山丸太」は京都府の「伝統工芸品」と指定を受けるに至りました。 北山杉はただの木材ではなく、いうなれば芸術品として価値を認められたことになります。

北山杉は長い歴史の中、変わらない美しさを保ち続けています。
しかしこの美しさを次世代に伝えていくために、いままでにない新たな試みが必要になってきているのも事実。
床の間だけではなく、北山杉が輝く場所は人々の生活の中に必ず見つかるはずです。